Wednesday, October 3rd, 2018

METHOD MAN:ED HARRIS
俳優エド・ハリス 独占インタビュー

役に没入して演技をする方法=“メソッド演技法”の第一人者であり、偉大な俳優エド・ハリスは、
映画あるいは演劇史上、これまでになかったようなアクの強い人物を演じてきた。
そしてこれからも、演じることの楽しみをすぐには止めるつもりはないようだ・・・。
text ryan thompson photography michael schwartz fashion direction jo grzeszczuk
Special thanks to Flower Ave.

ジャケット Ralph Lauren Purple Label
チーフ Anderson & Sheppard Haberdashery
ジーンズ、ハット、ブーツ all property of Ed Harris

信じられない体験

1972年、オクラホマ・シティのジュエル・ボックス・コミュニティ・シアターの小さく簡素なステージにいたのは、エド・ハリスという名の若い素人俳優だった。ステージが終わる頃、劇場は満席だった。
 この年は、ベトナム戦争とウォーターゲート事件があり、アメリカの政治にとっては最悪な年であったが、エンターテイメントでは最高の年だった。ローリング・ストーンズが北アメリカのツアーをしていたし、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』が、シシリアン・マフィアの魅力をアメリカ人に伝えていた。新年はエルビス・プレスリーの歌で明けた。アポロの月面着陸のときよりも、多くの視聴者が、プレスリーのハワイでのコンサート(エンターティナーによる初めての衛星中継)を見るためにチャンネルを合わせた。70年代は、文字通り、輝ける時代だったのだ。
 ジュエル・ボックス・シアターでは、200人くらいの聴衆は、しばらく沈黙を守っていた。キャメロットのミュージカル版を見終わったところで、やせた、アスリートのようなアーサー王が、背が高く、背筋がピンとしているように見えるように絶え間なく努力をしながら、彼らの前に立っていた。リハーサルの時に背中にテープで貼られていた木製の物差しは、本番では落ちてしまっていた。パウダー・ブルーの目は聴衆を見つめ、何が起きているのかを理解しようとしていた。
 突然、聴衆は席から立ち上がり、拍手し、そして叫んだ。このときの賞賛は、この偉大な俳優のキャリアの最初の一歩となった。70本以上の映画、数え切れない舞台、多くの賞を獲得した演出、そんなドミノ倒しの最初の駒となった。しかし、1972年、このステージに立つエド・ハリスは何が起きているのかまったくわかっていなかった。

「それは本当だった」 ハリスは、ロサンゼルスの丘の上の、22,000平方メートルもの敷地を持つランチ・ハウスに住んでいる。やはり俳優である妻のエイミー・マディガンと、33年間一緒だ。彼はそこでTHE RAKEに語った。
「その夜舞台から降りると、轟きが聞こえてきたんだ」
 誰も真似することのできないしわがれ声で、思い出すように語る。
「われわれがカーテンコールで戻ったとき、みんなが足を踏みならして、喝采してくれていたんだ。かなり激しくね。私は頭が空っぽになって、ショーをやったことが思い出せなくなってしまった。ドラッグや何かとは関係なく、突然それまでに経験したことのなかった、陶酔した気分がやってきた。10分くらいは続いたかな? 信じがたい体験だった。本当に演じたことを覚えてなくて、頭が真っ白になってしまったんだ」
「それまでに演劇をたくさんやったわけではなくて、ほんの数本だった。そんなことが起きるなんてことは、まったく考えられなかった。これまで同じような経験をしたことがある人とは話したことがないけれど、われわれのモチベーションとは、そういうところから来るものではないだろうか? 一度の経験が忘れられなくて、その後の人生は、その気持ちをもう一度味わいたくてやっているようなものだ」

演劇に目覚めたとき ハリスは1950年にニュージャージーで生まれたが、両親はオクラハマ出身だ。母マーガレットは優秀な主婦であり、旅行代理店もしていた。父のボブはテレビ草創期の歌手だった。ハリスの家族は50年代半ばのペリー・コモ・ショーで、レイ・チャールズ・シンガーズとボブが競演するのを毎週見ていたという。
「父は信じがたいほどの優しさを持っていた。他の人のことを本当に気に掛けていたんだ。例えば、夕食の時の祈りは、『この食べものを私達のために、また、他の人々のために使えるようにお恵みください』というようなものだった。実際、彼の生き方がそういうものだった。とても心が広くて、人に与えることが多く、愛に溢れた人だった。時々、度が過ぎるくらいに」
 実際、彼は人知れずうつ病を煩っていたが、ハリスは20代になるまでそれに気づかなかった。
 ティーンエイジャーになったエド・ハリスは、彼も認めるところだが、キレやすい問題児だった。が、そのエネルギーをフットボールに昇華することができた。
「俺はアスリートとしてはかなり良かった」
 当たり前のことのように彼は語る。
「フットボールと野球が好きだった。勉強もできた。すごいというわけではないけれど、まぁまぁ優秀だった。課題もやったし、意識も高かった。フットボールは一生懸命やって、コロンビア大学では1969年に、フレッシュマン・フットボールにも出場した。ハーフバックとディフェンシブ・バックだったんだ。しかし2年生の夏、フットボールに対する興味は、突然失ってしまった」
 オクラホマ大学で『タルチュフ』と『ラマンチャの男』のパフォーマンスに魅了され、演劇熱に犯されたのだ。オクラホマ大学には有名な演劇コースがあったので、3年生の年は演劇を学ぶことに決めた。アルバイトをしながら、ジュエル・ボックスのような地方の劇場で演じた。最終的にハリスはロサンゼルス&カリフォルニア芸術学院に移り、1975年に卒業した。
 それからの3年間はロサンゼルスの小劇場で舞台に立ち、ジョージ・A.ロメロの映画『ナイトライダーズ』で主役を演じ、1983年には『ライトスタッフ』の宇宙飛行士ジョン・グレン役でブレイクする。同じ年、サム・シェパードの『フール・フォア・ラブ』でニューヨークでのデビューを飾り、優秀俳優に贈られるオビー賞を受賞、素晴らしいメソッド・アクターとしての地位を得ることになった。

THE RAKE JAPAN EDITION International
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