December 2018

IMMORTAL SIREN

妖艶な女流画家
タマラ・ド・レンピッカ

text stuart husband

1940年のレンピッカ。女優のように美しく着飾りポーズをとる写真が多数残っている。

裕福に育ったプライドの高い女 レンピッカは、1898年にワルシャワのポーランド系ロシア人貴族(父は弁護士、母は社交界の淑女)の家庭にマリア・グルスカという名で誕生した。幼いマリアはスイス・ローザンヌの全寮制学校で学んでいたが、1911年の冬に祖母とイタリアを旅した際に各地の美術館でルネサンスの巨匠の作品に触れ、頬の造形、遠近法に基づく描写、構図、明暗法、厚塗りの技法を知った。

 翌年に両親が離婚すると、マリアはサンクトペテルブルクの邸宅に暮らす叔母のステファーニヤと同居し始めた。叔母の夫は銀行家で裕福。自分もそんな上流社会の高みへ登り詰めてみせると決意したマリアは、わずか15歳にして自分にふさわしいと考える男性に狙いを定めた。それが*タデウシュ・ド・レンピッキだった。彼はほどなくして結婚の申し込みに快く同意したが、実際は競争心の強いマリアの方が、高額な持参金で彼を獲得することに躍起になっていたようだ。結婚1年後にロシア革命が起きると、夫婦は最終的にフランスへ逃れた。マリアは、タマラ・ド・レンピッカと名を変え、20年代のパリと自由奔放な生活に嬉々として飛び込んだのだった。

 フランスでも美術の勉強を継続するべく、さまざまなアカデミーに入学した彼女は、すぐにあの画風を編み出した。パリへ移住してまもなく生まれた娘のキゼットは、のちに辛辣な言葉でこう述べている。

「母はあらゆる人間を描いた。金持ち、成功者、著名人。そしてその多くとベッドをともにしていた」。

*タデウシュ・ド・レンピッキ =“ ワルシャワで最もハンサムな独身男性”と言われた弁護士でプレイボーイだった。
THE RAKE JAPAN EDITION issue 25
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