Wednesday, December 26th, 2018

IMMORTAL SIREN
妖艶な女流画家
タマラ・ド・レンピッカ

男性とも女性とも関係を持つ

 モデル、街娼、社交界の淑女を描いたレンピッカの裸婦画は、冷淡でありながらも、官能的なスリルを宿している。その一方で、亡命中の王族やパトロンを描いた男性の肖像画は、いずれもたくましい肩とくびれたウエストを持ち、颯爽たる口髭をたくわえているのが興味深い。
 レンピッカが「何でもやってみた」という有名な主張をしたのは、この時期だ。「そうすることが芸術家としての義務だから」。ハリウッド女優のグレタ・ガルボと関係を持ったとか、アール・デコを独力で生み出したという彼女の大言壮語は額面通りに受け取れないが、彼女が戦間期の華やかさとデカダンスの体現者となったことは確かである。作品がドイツのファッション誌『Die Dame』の表紙を飾ると、レンピッカの名は一気に認知されるようになり、1927年には肖像画1点につき5万フラン(現在で約3万米ドル)で売れるまでになっていた。
 また、一流カメラマンたちのモデルを引き受けて、毛皮や真珠をたっぷり身に着けて尊大な態度を取ったため、彼女の知名度はますます高まった。そうしていくうちに、彼女は作家でレズビアンのナタリー・クリフォード・バーネイが主催するサロンに出入りできるようになる。当時の有力な知識人たちが一堂に集まるこのサロンで、レンピッカはジェイムズ・ジョイス、ジャン・コクトー、アンドレ・ジッド、イサドラ・ダンカンらと親しくなった。また、シャンソン歌手でキャバレーの経営者でもあった*シュジー・ソリドールと親密な仲になり、官能的な肖像画も描いている。
 類い稀な美貌を持つレンピッカは両性愛者として男女ともに交際を広げたことはよく知られている。あまりある彼女の放縦さに疲れきった夫のレンピッキは、1928年についに離婚に踏み切った。しかし、レンピッカには既に次の夫候補がいた。ハンガリーの大富豪でパトロンだったラウル・クフナー男爵だ。レンピッカは男爵の愛人、ナナ・デ・エレラの肖像画を描いたときに男爵と出会い、1928年には彼の絵も描いている。その5年後に男爵と結婚したレンピッカは、“絵筆を持つ男爵夫人”となり、真の上流階級のライフスタイルを手に入れた。

忘れられた画家が受けた再評価

 1939年、夫妻は戦火から逃れるべく、米国へ長期休暇に旅立った。映画監督のキング・ヴィダーがかつて暮らしたビバリーヒルズの家を借り、画廊での展覧会を企画したり、ハリウッドスターと親交を深めたりと東奔西走した結果、米国でも人気を得た。しかし戦後、抽象的表現主義が出現すると、彼女の画風は時代遅れとなった。ニューヨークでの展覧会は不評に終わり、60年代初めにクフナー男爵が亡くなると、彼女は俗世間から遠ざかるようになる。その後、1970年代に再評価されるようになるが、1980年に彼女はメキシコの自宅で息を引き取った。
 その遺灰はポポカテペトル火山に撒かれた。同時代の芸術家の中でも、ひときわ熱量のある作品を生み出した彼女にはふさわしい結末であろう。
 それから数十年が過ぎた今日でも、レンピッカの絵画は世界中で人気だ。2009年にオークションにかけられた『マダムMの肖像』は、600万米ドル超で落札され、大回顧展は「Tamara de Lempicka:Art Deco Icon(アール・デコのアイコン)」と題された。もし彼女がこの称号を目にしたら、当然だと言わんばかりに冷ややかな笑みを浮かべただろう。かつて彼女は自身を、「明瞭に描いた初めての女性」と断言した。「それが成功の基盤だった。たとえ100枚の絵があっても、私の作品はひと際目立つのよ」。

*マドンナ = デヴィッド・フィンチャー監督が手がけた『VOGUE』のミュージックビデオや、コンサートのステージ演出などにレンピッカ作品をたびたび登場させている。
*タデウシュ・ド・レンピッキ =“ ワルシャワで最もハンサムな独身男性”と言われた弁護士でプレイボーイだった。
*シュジー・ソリドール = 1920年代を代表するシャンソン歌手。狂騒の時代のパリにおいて主要な知識人のひとりであり、有名なレズビアンでもあった。

『四人の娼婦群像』(1925 年)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 25
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