Wednesday, December 26th, 2018

IMMORTAL SIREN
妖艶な女流画家
タマラ・ド・レンピッカ

数々のパトロンやモデルと親密な仲となった画家タマラ・ド・レンピッカは、
強い貪欲さをもって露骨な官能性を表現し、アール・デコを押し広げた。
今でも彼女の作品は珍重され、マドンナやジャック・ニコルソンら著名人にも収集されている。
text stuart husband

 1927年に描かれた『美しきラファエラ』は、実にタマラ・ド・レンピッカらしい作品である。裸婦は片腕を頭の後ろに伸ばして横たわり、自慰すら連想させる自己陶酔的な恍惚感に浸っている。美術史における伝統的なポージングだが、その身体はオープンカーのように輝いており、尻はフェンダーを、乳房はホイールキャップを思わせる。モデルは、レンピッカがパリのブローニュの森で出会った若い高級売春婦である。キュビズム、未来派の様式が混ざり合ったこの作品はレズビアンの官能性を感じさせ、まるで見る者を高揚させるソフトコア・ポルノだ。刺激的な女性解放化の時代に、この画風は彼女を指折りの芸術家へと押し上げた。
『美しきラファエラ』はジャック・ニコルソンが所有しているといわれ、別のバージョンはダナ・キャランのコレクションに所蔵されているという。バーブラ・ストライサンドや*マドンナもレンピッカのコレクターとして有名だ。レンピッカはアイデンティティーを創造し表現する者にとっての模範的存在であり、ハリウッドの大物たちが共感を覚えるのも自然なことだろう。
 彼女は自らもモデルとしてカメラマンの前で長時間ポーズを取り、映画女優になることを夢見ていた。パテ・ニュースが1932年に制作したスクリーンテストにも、理想的なアール・デコのアトリエでシガレットホルダーをひけらかしつつ、階段を堂々と下りる姿が映っている。彼女は数年前、そのアトリエで見事な“名刺”となる作品を描き上げた。『緑色のブガッティに乗るタマラ』と題したこの自画像は、自身をブガッティのハンドルを握る魔性の女として描いている。彼女が被るヘルメットの形は幾何学的に整ったボブヘアと一致し、青白い顔は無表情で仮面のようだが、両目からはセックス、金、名声、もしくは悪名を際限なく貪欲に求めた、レンピッカの本物の欲望が透けて見える。そしてこれこそが、彼女を先駆的な現代人たらしめた要素でもあった。

裕福に育ったプライドの高い女

 レンピッカは、1898年にワルシャワのポーランド系ロシア人貴族(父は弁護士、母は社交界の淑女)の家庭にマリア・グルスカという名で誕生した。幼いマリアはスイス・ローザンヌの全寮制学校で学んでいたが、1911年の冬に祖母とイタリアを旅した際に各地の美術館でルネサンスの巨匠の作品に触れ、頬の造形、遠近法に基づく描写、構図、明暗法、厚塗りの技法を知った。
 翌年に両親が離婚すると、マリアはサンクトペテルブルクの邸宅に暮らす叔母のステファーニヤと同居し始めた。叔母の夫は銀行家で裕福。自分もそんな上流社会の高みへ登り詰めてみせると決意したマリアは、わずか15歳にして自分にふさわしいと考える男性に狙いを定めた。それが*タデウシュ・ド・レンピッキだった。彼はほどなくして結婚の申し込みに快く同意したが、実際は競争心の強いマリアの方が、高額な持参金で彼を獲得することに躍起になっていたようだ。結婚1年後にロシア革命が起きると、夫婦は最終的にフランスへ逃れた。マリアは、タマラ・ド・レンピッカと名を変え、20年代のパリと自由奔放な生活に嬉々として飛び込んだのだった。
 フランスでも美術の勉強を継続するべく、さまざまなアカデミーに入学した彼女は、すぐにあの画風を編み出した。パリへ移住してまもなく生まれた娘のキゼットは、のちに辛辣な言葉でこう述べている。
「母はあらゆる人間を描いた。金持ち、成功者、著名人。そしてその多くとベッドをともにしていた」。

Tamara de Lempickaタマラ・ド・レンピッカ
1898 年、ロシア帝国支配下のポーランド・ワルシャワで裕福な家庭に生まれる。18 歳でハンサムな弁護士と結婚。翌年ロシア革命でパリへ亡命。アール・デコを象徴する官能的な肖像画を多数残す女流画家となる。人一倍高いプライドを持ち、競争心が強く、自己プロデュースにも長けていた。自身の美貌と魅力を武器に本能の赴くままに交際を広げ、上流階級の社交場を利用しながら芸術家として成功を収めた。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 25
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