Tuesday, January 24th, 2017

COUP DE GRACE

グレースという贈り物
想像しがたいことだが、モンテカルロは最初から華やかな
保養地だったわけではない。戦後、モナコ公国のイメージを変えるには
活動的な若き大公と、彼にふさわしい花嫁が必要不可欠だった。これはレーニエ大公と
グレース・ケリー、そして現代モナコの誕生にまつわるチャーミングな物語である。
text nick foulkes

 モナコというと、いかがわしい人々が集まるような場所を連想し、白い目で見る人もいる。しかし私は、モナコが好きだと言わずにいられない。すべてがうまく回っていて、清潔で暖かい。モナコへ移住してきた人々の中には、かなり興味深い人物もいる。地中海沿岸に位置するこの小国が、我々の人生をより豊かなものにしてくれていると私は思うのだ。
 しかし、そんな現在の姿とは結びつかないほどに、レーニエ大公が継承した1950年のモナコは、収入が75%も急落し、財政危機ともいうべき状況にあった。当時、リノやラスベガスのような他の新しいギャンブルリゾートは、大物エンターテイナーを抱え、より陽気でリラックスした雰囲気を提供していたからだ。モナコで主流だった優雅でフォーマルなギャンブルのスタイルよりも、新時代のギャンブラーに受けたのだろう。
 冬のさびれ方も同様に深刻だった。もともと南フランスは、北ヨーロッパの厳しい天候から逃れるための冬の行楽地だった。だが1920年代になってから、コート・ダジュールは夏の行楽地として人気となった。このシーズンの逆転現象は、地中海沿岸だけでなく、古くから避暑地として訪れたスイスの山々でも起きていた。レーニエ大公自身も「冬に活気がなくなったのは、最近皆がウインタースポーツをしに行きたがるからだ」と語った。

敵、そして親友だったオナシス

 この状況から脱すべく、レーニエ大公とその妻グレース・ケリーは“国家のイメチェン活動”に懸命に取り組んでおり、戦後のヨーロッパでも指折りの有力者たちと勇敢に対決していた。
 中でも特筆すべきは、アリストテレス・オナシスとの対決だ。オナシスは自分はふたつのおもちゃを持っている、と軽口をたたいていた。ひとつはヨットのクリスティーナ号で、100メートルをほんのわずかに下回るその全長は、今の基準からしても大きい。そしてもうひとつは、カジノ、歌劇場、オテル・ド・パリといった、モンテカルロで最も有名なランドマークをいくつも所有・運営していたSBM(ソシエテ・デ・バン・ド・メール)社だった。
 レーニエ大公がかのオナシスに立ち向かい、勝利を収めた物語は弊誌の創刊号でも紹介した通りだが、実は、即位当初の大公と、SBMの主要株主であったオナシスとの関係は良好で、友情といってもいいほどだったという。
 その証拠に、1956年4月12日、アメリカの大型遠洋定期船がモンテカルロの入り江に入ってきたとき、その上を飛び、海に向かって、シャワーのように花を撒いてみせたのは、オナシスの自家用飛行機だった。もちろんレーニエ大公は、モナコに観光客を連れてくる遠洋定期船ならどれでも大歓迎しただろうが、この船は特別だった。なぜなら乗客の中に、ジャック・ケリーがいたからだ。彼は娘のグレースがモナコ大公のもとへ嫁ぐ姿を見ようと、家族とともに乗船していたのだ。
 グレースは、花で覆われたタラップを降りるとヨットを横付けしていた婚約者のもとへ向かった。飛行機から降り注ぐ花々は、船の乗客たちが投げる花々と交じり合った。よほどの薄情者を除けば、自分の娘のそんな姿を見て、胸がいっぱいにならない人間はいないだろう。
 今日の我々が知る現代モナコが誕生したのは、この瞬間だったのかもしれない。おとぎ話に出てくるような大公と、映画スターである公妃との間近に迫った結婚により、海辺の公国のイメージチェンジが始まろうとしていた。ただし若いふたりには、過酷な日々が待っていた。

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婚礼前のモナコ大公レーニエ3世とグレース・ケリーが、互いに乾杯する姿(1956年)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 13
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