Monday, June 11th, 2018

CELLULOID STYLE “PHANTOM THREAD”
ファッション業界でも話題!
“ファントム・スレッド”のスタイル

今年のアカデミー賞と英国アカデミー賞の衣装デザイン賞の
W受賞を果たした映画『ファントム・スレッド』。
本作にそれほどの価値をもたらすファッションとは何か。
text anna prendergast photography ©2017 Phantom Thread, LLC All Rights Reserved

ヴィクトリア女王時代、東ロンドンのお針子たちは王族や貴族のためにひたすら衣服を縫い続けた。あまりにも長時間にわたる作業だったため、仕事場の外でも「見えない糸(=ファントム・スレッド)」を縫い続けたという逸話がこの作品のタイトルの由来となった。

『ファントム・スレッド』はダニエル・デイ=ルイスの引退作となる映画である。舞台は1950年代のロンドン。彼が演じるのは、英国ファッションの中心的存在として社交界から脚光を浴びるオートクチュールの仕立て屋、レイノルズ・ウッドコック。だが、その性格が実にいただけない。ときに気難しく、短気で、無神経な態度を取る。人として何か欠けている天才だ。一方で、身なりは極めて洗練されている。ワードローブは上品さに溢れ、見るからに英国紳士らしい。
 デイ=ルイスは、徹底した役作りを行うことで有名だ。そのため、ウッドコックのワードローブに関して、衣装デザインを担当したマーク・ブリッジス(本作で2度目のアカデミー衣装デザイン賞を受賞)と協力し、綿密な打ち合わせとリサーチを重ねたことは何ら不思議ではなかった。力を貸してくれたのは、サヴィル・ロウのテーラー、アンダーソン&シェパード。彼らは本作のために7つのビスポーク・ルックを生み出した。フロント・オブ・ハウス・マネージャーのマーティン・クローフォード氏は、「(作業は)とても順調に進みました」と語る。
「時代に合わせた装いにすることが最優先でした。そのため、トラウザーズのウエスト位置は高くしてプリーツを入れ、レッグは広めに裁断しました。生地も現代よりはるかに重いもの。19オンスのバラシャで作ったディナースーツは、オーバーコート並みの重さです」
 ハーディ・エイミス、ディグビー・モートン、クリストバル・バレンシアガなどの粋なデザイナーたちが活躍した世界に焦点を絞り、さらにデイ=ルイスの父であるセシル・デイ=ルイス(詩人・推理小説家として有名)を研究することで、チームはさまざまなインスピレーションを得た。彼はアンダーソン&シェパードの贔屓客だったのだ。ウッドコックのオーバーコートは、そんな彼に敬意を表する1着だ。「あれは挑戦でした」と語るのは、カッターのレオン・パウエル氏。
「当店ではラグラン袖のコートに仕立てることはあまりないんですが、彼がお父様の写真を持参して、このスタイルが好きだと話してくれたんです」
 おそらくデイ=ルイスは、スーツの上に着るならば、ラグランコートこそが理想的だとわかっていたのだろう。肩に縫い目がなく、ゆったり垂れる形状のおかげでスーツの縫い目を乱さず、シワになる心配もない。こうしたディテールは確かに、こだわりの強いクチュリエくらいしか気づきそうにないものである。さらにクローフォード氏は明かす。
「スクリーンには映りませんが、裏地にきちんと名前の刺繍を施しているんです。これは私たちのビスポークオーダーでは必ず行っていることですが、今回は特例として、片側に“ダニエル・デイ=ルイス”、反対側に“レイノルズ・ウッドコック”とお入れしました」。ビスポークならではのこまやかさを存分に感じさせるこのようなエピソードからも、本作の衣装に向けられた強いこだわりが伝わってくる。
 仕立てられた衣装が物語る、熟練の職人による極上の品質には、ウッドコックはもとより、デイ=ルイス自身もまた深い敬意を抱いている。かつてイタリアで1年以上にわたって靴職人の修業をした経験を持っているし、10代のときには俳優になるために家具職人の道を諦めたこともあった。彼の中には、“稼業”を“匠の技”へと高めるための基準が確立しているのだ。精巧に作られた靴を愛してやまない彼は、イギリスの名門シューメーカー、ジョージ クレバリーと長い付き合いがある。同社の共同所有者、ジョージ・グラスゴー・シニア氏は、この映画にウッドコックのアドバイザー役として出演を求められ、実際に登場したほどだ。「作中の彼は、当社のオックスフォードシューズを鮮やかなテクニックで磨いていますよ(笑)」とグラスゴー氏。「郊外のシーン用に、スエードでも1足お作りしました」。人当たりの柔らかなグラスゴー氏だが、意外にもデイ=ルイスの演じる厳格な役に親近感を覚えたという。
「職人の仕事では、集中力が大いに求められます。手で作業していると、すべては自分の頭の中、つまり思考だけで決まるんです。ですから心を乱すものがあってはならない。物事がうまくいかないと、仕上がりに如実に出てしまうのです」
 デイ=ルイス自身が持つ職人技への敬意と、こだわり尽くされた衣装によって、作品は贅沢な映像美を手に入れた。
THE RAKE JAPAN EDITION issue 22