Friday, December 22nd, 2017

BRIGHT LIGHTS, B.I.G. CITY
24歳で散った“ビギー”

ノトーリアス・B.I.G.の名で知られるラッパー、クリストファー・ウォレスが射殺されてから20年。
彼の作品は批評家たちに絶賛されたが、本人は高尚な芸術的野心など抱いてはなく、
商業的、物質的な成功がすべてだった。
text benedict browne

パフ・ダディとの固い絆

 だが、釈放から数カ月が過ぎた頃、ウォレスは音楽の世界で大きな幸運に恵まれた。友人と録音したミックステープが、伝説的なオールドスクール・ラッパー、ビッグ・ダディ・ケインのDJを務めたミスター・シーのもとへ辿り着いたのだ。その内容に心を動かされたミスター・シーは、ヒップホップ誌『The Source』の編集者、マティ・Cにテープを渡した。すると、マティがビギーに関する初めての記事を執筆。さらにマティは、音楽業界でめきめき頭角を現していたアップタウン・レコードの若き副社長に、この有望な新人をチェックすべきだと提案した。その副社長こそが、(今ではパフ・ダディやディディという名のほうが有名な)ショーン・コムズだった。
「マット(マティ)が彼に俺の曲を聴かせたところ、彼は気に入って俺と会いたがった。こうして俺たちは出会い、俺は彼にちょっとラップをやってみせた。そこから始まったんだ」
 コムズがアップタウンを去り、自身のレコードレーベル「バッド・ボーイ」を創設したときも、新米弟子であるビギーは率先して契約を結んだ。「俺とパフは固い絆で結ばれてるんだ」と、ウォレスは95年に語った。
「パフは恩人だ。俺のことを気にかけてくれる。わかるかい? ストリートから抜け出させてくれたんだ。俺にチャンスをくれた。パフのことは大好きさ」
 1994年は、ウォレスにとって重要な意味を持つ1年になった。同じくバッド・ボーイに所属するアーティスト、フェイス・エヴァンスと出会い、わずか1週間余りで結婚したのだ。ウォレスはその後間もなく、象徴的なデビューLP『レディ・トゥ・ダイ』もリリースした。同アルバムのファーストシングル『ジューシー』は、アンダーグラウンド界とラジオですぐさまヒット。セカンドシングル『ビッグ・ポッパ』とサードシングル『ワン・モア・チャンス』は、ミリオン超えのセールスを達成した。魅力的な要素にあふれたパフィのプロデュースと、B.I.G.の滑らかで明瞭な語りは、B.I.G.が思春期から売っていたクラックコカインに匹敵するほど中毒性のあるサウンドを生み出した。薬物売買の経験は、彼が紡ぎ出す説得力あるストーリーの中心であり続けた。
「俺の音楽には聴いて為になるようなメッセージなんて込められていない。基本的にはただの自叙伝なんだ。俺はただ音楽を作っているだけだ」と彼はインタビュアーに語っている。
 ビギーは『ジューシー』の中で、自らの幼少期についてこんな風に歌っている。
「大家にバカにされては やきもきした/暖房もなく なぜウチにはクリスマスが来ないのかと思ったもんだ/誕生日は最悪だった/それが今じゃ喉が渇けばシャンパンをちびちびだ」
 93年に元恋人が自分との娘を出産し、96年に妻エヴァンスとの間に息子が誕生して父親になったビギーにとって、子供たちが自分と同じ苦労をしないよう、一家の大黒柱でいることが最重要だった。
 ビギーの作品は幅広い批評家から絶賛されたが、本人は高尚な芸術的野心など抱いていなかった。彼にとっては、商業的、物質的な成功こそが大切だった。
「ラップにおける俺の責任は、家族がまともな暮らしを送れるよう、ヒット作を出し続け、レコードを売り続けることさ」
 しかし、彼の家族観がそれ以上広がることはなかった。皮肉にも“誠実”を意味する名を持つフェイス・エヴァンスとの結婚後、何年も経たないうちに、ビギーはラップの愛弟子であったリル・キム・ジョーンズと公然たる不倫関係になった。
 さらに、95年にはティファニー・“チャーリー・バルティモア”・レーンとも(エヴァンスやジョーンズと並行して)付き合い始めた。恋人が増えれば、問題も増えるものだ。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 19
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