Monday, April 16th, 2018

BLACK VENUS RISING
立ち上がる黒きヴィーナス

女優からスパイへ

 自信に満ちあふれた芸によって衝撃と刺激をもたらしたベイカーは、1000人以上から結婚を申し込まれた。彼女のことを、アーネスト・ヘミングウェイは「過去、現在、未来における最もセンセーショナルな女性」と賛美し、パブロ・ピカソは「現代のネフェルティティ」と形容した。彼女は“黒いヴィーナス”として広く知られるようになり、ヨーロッパでも指折りのエンターテイナーとなった。そしてほぼ一夜にして、その素晴らしさを称える産業を生み出したのだ。幼い少女らはバナナスカートをはいた小さな人形を買い求め、乙女たちはお金を貯めてジョセフィン・ベイカーの香水を手に入れた。お洒落なマドモアゼルたちも、彼女のボブを真似したがり、髪をまっすぐ整える“ベイカーフィックス”という整髪料を我先にと購入した。リヴィエラとドーヴィルでは、女性たちがベイカーのチョコレート色の肌を目指して、日焼けした肌にくるみオイルをたっぷり塗った。フランス人の映画愛とベイカーへの愛が必然的に融合した結果、彼女は『はだかの女王』や『タムタム姫』といった長編映画にも出演することになる(彼女は歌も見事だった)。こうした成功がもたらした資金で、彼女はフランス南西部に地所を購入し、イーストセントルイスから家族を呼び寄せることができた。
 もし、そこですべてが終わっていたならば、ベイカーは今日でも、ガルボやピアフのような人々に混じって思い出されるアイコンだっただろう。だが、この物語が終焉を迎えるのはもっと先なのだ。1936年、フランスで花形となっていた彼女は、そろそろ米国も初の黒人スーパースターを受け入れる準備ができただろうと考えた。だが、それは大きな誤算だった。かつて彼女に国外への脱出を余儀なくさせた人種差別は、ますます根深くなっており、公演のたびに野次が飛ぶありさまだった。ニューヨーク・タイムズも、彼女を“黒人の尻軽女”呼ばわりした。
 ベイカーは幻滅と傷心のうちにフランスへ戻ると、ジャン・リヨンという名の裕福な実業家と結婚し、フランスの市民権を取得した。市民権の取得は、生まれ故郷の偏見に対する拒絶であり、その偏見を乗り越えさせてくれた国を受け入れる行為であった。そうして約3年後、ナチスがフランスを占領したことで、彼女はフランスへの忠義を行動で示すよう求められることとなる。彼女はフランスの防諜機関のトップであるジャック・アブテーに採用され、秘密のスパイとして働くことになったのだ。ナチス側から見れば、これは死刑の理由に十分なり得る犯罪であったため、ベイカーにとっては、もし見破られれば直近の役が最後の役になってもおかしくない状況だった。
 ベイカーはフランスのレジスタンスのみならず、アメリカやイギリスのスパイにも情報を伝達した。情報の入手方法は、自分の公演に押し寄せるドイツ人支配者層の話を盗み聞きするというものだった。さらにベイカーは、文書を秘密裏に届ける任務を何度となくこなした。あぶり出し用のインクで情報が記された楽譜を持って、パリのさまざまな場所を行き来したのだ。こうした努力に対し、ベイカーはクロワ・ド・ゲール勲章とレジスタンス勲章を授与されるとともに、シャルル・ド・ゴール将軍によってレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエに叙された。アメリカの将軍ジョージ・スミス・パットンも、特筆すべき人物として彼女の名を挙げた。

それでも色濃く残る人種差別

 終戦後、彼女は公演のためにアメリカへ帰国したが、再びきわめて露骨な拒否反応を示された。しかし、ベイカーはここでも本領を発揮し、人種差別が行われているクラブでの公演を拒否するという行動で、不当な仕打ちに立ち向かった。また、ラスベガスの公演会場に対しても、自分の出演を予約したいのであれば、観客を人種差別しないことが条件であると伝え、アフリカ系アメリカ人パフォーマーの先駆者となったのだ。これもまた、時代が違えば十分に通用するスタンスだった。だが、実際はうまくいかなかった。
 かくしてベイカーは、アメリカで急速に拡大する公民権運動において、最も雄弁な人物のひとりとして活躍することになる。中でも女性はきわめて稀有であった。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが“I have a dream”で有名な演説を行った1963年のワシントン大行進においても、ベイカーはマイクで演説をした唯一の女性だったのだ。
 それでも1973年になると人々の姿勢は大きく変化することとなる。ベイカーはこの年、スタンディングオベーションに迎えられながらニューヨークのカーネギーホールの舞台に立ったのだ。舞台の上で彼女は、歌や踊りを披露する前に涙を流したという。
 結婚による幸せこそ長続きしなかったものの、ベイカーはさまざまな生い立ちを持つ12人の子どもを養子に迎え、愛情深い母親であることを身をもって示した。彼女は子供たちを“虹色の一族”と呼び、自分の行動は、民族や宗教が違っても子供たちはきょうだいになれることを証明するためのものだと語った。
 デビュー50周年を記念し、パリのボビーノ劇場で行われた回顧レビューでは、自身で主役を務めた。1975年に行われたこのショーには、ジャクリーン・ケネディとモナコ公国のグレース妃が資金を提供し、ライザ・ミネリ、ミック・ジャガー、ソフィア・ローレン、シャーリー・バッシー、ダイアナ・ロスなどが初日のゲストとして駆け付けた。
 脳溢血に見舞われたベイカーがベッドで発見されたのは、その4日後だった。その後間もなくこの世を去った彼女は、正式な軍葬の礼をもってフランスで葬られた初めてのアメリカ人女性となった。葬列には、彼女の死を悼む2万人を越える人々が参加した。ジョセフィン・ベイカーは、最後まで大観衆の前で演じ切ったのだ。

作家アーネスト・ヘミングウェイに“最もセンセーショナルな女性”と賛美されたジョセフィン・ベイカーは、自然体でカリスマ性にあふれていた。

ポートランドプレースのベアード・テレビジョンスタジオでポーズをとるベイカー(1933 年)。

夫兼マネージャーであり、彼女のイメージチェンジを手助けしたジュゼッペ・ペピート・アバティーノと。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 19
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