April 2018

BLACK VENUS RISING

立ち上がる黒きヴィーナス

text david smiedt

ペットの子ヒョウを連れたベイカー。彼女は野生動物との触れ合いを恐れない女性だった。

見事なまでに揃った三拍子 13歳になると、彼女はナイトクラブの給仕として働き始め、さらに特等客車のポーターであったウィリー・ウェルズと結婚した。結局ふたりは数週間で離婚したが、結果的にはよかったのだろう。

 ショービジネスに近い場所にいたことで、彼女の中にも、すべてのパフォーマーが普遍的に抱く“私にもできる”という思いが芽生えた。自分に振り付けの才能があることに気づいた彼女は、1919年にはディキシー・ステッパーズという一座とともに巡回公演を行う。

 ここで注目すべきは、若き画家のフリーダ・カーロが「誰もが認める美貌」と、作家のシドニー=ガブリエル・コレットが「この上なく美しいヒョウ」と形容した身のこなしに加えて、ベイカーはコメディアンとしての天賦の才にも恵まれていたことだ。そんな華麗さとユーモアを併せ持った彼女は、ついにはニューヨークの名門ナイトクラブで働くようになった。

 そして1921年にウィリー・ベイカーと結婚し、名と姓の両方を変えてジョセフィン・ベイカーになると、ミュージカル『シャッフル・アロング』で、コーラス隊の端っこにいる快活な女の子の役を獲得する。この間ずっと、彼女の中に流れるアパラチ族とアフリカ系アメリカ人の血は、妙なるハーモニーを生み、類まれでエキゾチックな美女を育んでいた。

 裏方や脇役で満足するタイプではなかったベイカーが手に入れた理想的な活躍の場は、フランスだった。当時のフランスでは、ジャズやそれをもたらしたアフリカ系アメリカ人の文化が大人気だったのだ。

 1925年、ベイカーはレビュー・ネグロという名前の一団に参加してパリへ渡る。ここで彼女と仲間たちはスターとして歓待され、丁重に扱われた。この一団で彼女は、羽根でできたスカートのみを身に着けて“ダンス・ソヴァージュ”を踊り、多くのフランス人を驚かせた。だがこれは、さらに大胆な未来の前触れに過ぎなかった。

 1年後、ミュージック・ホールのフォリー・ベルジェールにて、ラ・フォリー・ドゥ・ジュールという演目に登場したとき、彼女の衣装は16本のバナナでできたスカートだったのだ。公演初日に受けたカーテンコールは、12回にものぼった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 19
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