Monday, April 16th, 2018

BLACK VENUS RISING
立ち上がる黒きヴィーナス

ジョセフィン・ベイカーは生まれながらのスターだった。しかしベイカーを
強力なシンボルへと印象づけたのは、米国公民権運動の声高な支持者としての彼女の活躍だった。
text david smiedt

 偉大な物語の例に漏れず、ジョセフィン・ベイカーの物語も、結末とはかけ離れたところから始まる。1906年にミズーリ州で誕生した彼女は、フリーダ・ジョセフィン・マクドナルドと名付けられた。当時のミズーリ州における人種差別は、1850年と同等といっていいほど激しいものだった。ダンサーになることを夢見たこともあった彼女の母キャリーが洗濯婦として働いてジョセフィンを養う一方、ヴォードヴィルのドラム奏者だった父エディ・カーソンは、娘が生まれて間もない頃にいなくなってしまった。
 だがベイカーは、ともに過ごす時間の代わりに、両親から贈り物をもらった。父は娘に天性のリズム感を、母は非凡な身体的特徴を与えたのだ。その身体は後に、研ぎ澄まされた運動能力と本質的な官能性を兼ね備えることになる。8歳で学校を諦めざるを得なかった彼女は、裕福な白人家庭でベビーシッターやハウスクリーナーとして働いた。仕事先では、悪くすると虐待され、良くても冷淡に扱われたが、この経験を通じて、彼女は自分も望んでいいはずの生活を垣間見る。それは、冷えたシャンパンや光沢を放つシルク、ホットなジャズや艶々としたキャビアのある生活だった。理想と現実のギャップが最も大きくなったのは、1917年にイーストセントルイスが人種暴動で修羅場と化し、ボックスカー・タウンにある一家の家が完全に破壊されたときだっただろう。この出来事は、彼女が生涯にわたって差別撤廃活動を続ける一因となった。

見事なまでに揃った三拍子

 13歳になると、彼女はナイトクラブの給仕として働き始め、さらに特等客車のポーターであったウィリー・ウェルズと結婚した。結局ふたりは数週間で離婚したが、結果的にはよかったのだろう。 ショービジネスに近い場所にいたことで、彼女の中にも、すべてのパフォーマーが普遍的に抱く“私にもできる”という思いが芽生えた。自分に振り付けの才能があることに気づいた彼女は、1919年にはディキシー・ステッパーズという一座とともに巡回公演を行う。ここで注目すべきは、若き画家のフリーダ・カーロが「誰もが認める美貌」と、作家のシドニー=ガブリエル・コレットが「この上なく美しいヒョウ」と形容した身のこなしに加えて、ベイカーはコメディアンとしての天賦の才にも恵まれていたことだ。そんな華麗さとユーモアを併せ持った彼女は、ついにはニューヨークの名門ナイトクラブで働くようになった。そして1921年にウィリー・ベイカーと結婚し、名と姓の両方を変えてジョセフィン・ベイカーになると、ミュージカル『シャッフル・アロング』で、コーラス隊の端っこにいる快活な女の子の役を獲得する。この間ずっと、彼女の中に流れるアパラチ族とアフリカ系アメリカ人の血は、妙なるハーモニーを生み、類まれでエキゾチックな美女を育んでいた。
 裏方や脇役で満足するタイプではなかったベイカーが手に入れた理想的な活躍の場は、フランスだった。当時のフランスでは、ジャズやそれをもたらしたアフリカ系アメリカ人の文化が大人気だったのだ。1925年、ベイカーはレビュー・ネグロという名前の一団に参加してパリへ渡る。ここで彼女と仲間たちはスターとして歓待され、丁重に扱われた。この一団で彼女は、羽根でできたスカートのみを身に着けて“ダンス・ソヴァージュ”を踊り、多くのフランス人を驚かせた。だがこれは、さらに大胆な未来の前触れに過ぎなかった。1年後、ミュージック・ホールのフォリー・ベルジェールにて、ラ・フォリー・ドゥ・ジュールという演目に登場したとき、彼女の衣装は16本のバナナでできたスカートだったのだ。公演初日に受けたカーテンコールは、12回にものぼった。

Josephine Bakerジョセフィン・ベイカー
1906 年アメリカ・セントルイス生まれ。人種差別の激しい故郷を離れ、16 歳でフィラデルフィアの劇場でデビューを果たす。4 年後にはパリの劇団で、バナナを腰まわりに着けたダンスで瞬く間に有名に。その後は女優としても活躍し、多数の映画作品に出演するとともに、自身の経験を生かし、米国公民権運動の支持者として活躍した第一人者。

リヴィエラやドーヴィルにいる多くの若い女性にとって、ジョセフィン・ベイカーの艶やかなチョコレート色の肌は美の基準だった。

ペットの子ヒョウを連れたベイカー。彼女は野生動物との触れ合いを恐れない女性だった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 19
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