Tuesday, July 24th, 2018

AN AFFAIR TO FORGET
セックス、ドラッグ、死、そして“甘い生活”

高い地位からの圧力の疑惑

 セント・ヒューバートの会員リストは、ジャーナリストたちが筆を走らせるのに十分な代物だった。ローマ法王専任の医師や、王庁の役人たち、さらにはイタリアのアッティリオ・ピッチオーニ外務大臣を父に持つジャズミュージシャン、ピエロ・ピッチオーニといった大物の名前が並んでいたからだ。記事によると首謀者はサン・バルトロメオ侯爵ウーゴ・モンターニャ。彼は国際的な麻薬密輸組織の頭目で、アヘンにまみれた夜会へ女性を誘い込んでいると報じられた。
 これはイタリア支配階級の名士たちを罪人へと転落させる一大醜聞だったが、マリオ・シェルバ首相にはそんなスキャンダルに対処する余裕はなかった。当時のイタリア国内の政治は内容に乏しく、共産主義とネオファシズムという、正反対の風変わりなイデオロギーに国民が魅力を感じるほどだった。そんな中、首相の率いるキリスト教民主党は、信任投票で辛くも勝利を収めたおかげで、3カ月ぶりに過半数の議席を確保したばかりという重要な局面にあったのだ。特権階級が退廃的な贅沢に耽っているというイメージは、国民の革命精神を呼び覚まし、政権の転覆さえ引き起こしかねなかった。
 そこで持ち出されたのが、「公共の秩序を乱すために不正確で粗悪なニュースを広めること」を禁じる、古いファシスト党の法律だった。この法律により法廷に引きずり出されたのは、『Attualità』誌の若き記者、シルヴァーノ・ムートであった。投獄されるか、上流社会の放蕩者の名前を列挙するかという選択を迫られた彼は、持っている情報のすべてをぶちまけた。
 ムートへの主な情報提供者は、騒動の中心となった背徳的な集いに関わったアンナ・マリア・モネータ・カーリオという女性だった。彼女は著名な弁護士の娘で、はっとするような美貌と濡羽色の髪の持ち主であったことから、メディアから“ブラック・スワン”と呼ばれた。貴族的な優雅さに溢れた彼女は、モンテージと同じく女優を目指したこともあったが、競争率の高い戦後ローマの映画・舞台業界において、自分は通用しないことを悟る。そこで選んだのが、高い生活水準と権力を有するローマの放蕩者たちの集いの場で生きていくという、次善の策だった。やがてカーリオは、月800ドルの報酬でモンターニャの愛人となった。しかし1953年の夏に愛人関係を解消されると、彼女は信仰に慰めを求め、フィレンツェの女子修道院に入信した。そこでウィルマ・モンテージの死について知っていることを洗いざらい暴露しようと決意したのだった。
 カーリオの記憶は不完全だったが、抜群の破壊力だった。彼女は、外務大臣の息子であるピッチオーニがドラッグで朦朧とするモンテージを波にさらわれるまま放置したと主張し、ピッチオーニは正式に過失致死罪に問われた。
 また、事件発生時、なぜかモンターニャに数日間ミラノへ行かされていたことも打ち明けた。戻ってきた彼女がモンテージの死について口にすると、「モンターニャは烈火のごとく怒り、『お前は知り過ぎている、どこかへ行ったほうが身のためだ』と言ったのです」と彼女は証言した。そしてモンターニャが自分を亡き者にしようとしているのではないかという疑念も裁判官に告げた。
 カーリオはローマの地区検事であるアンジェロ・シグラーニを訪ね、法廷に縁故主義が蔓延しているのではないかという不安を吐露したことも明かした(このとき、モンターニャがイタリア各地の港へ出かけているのは、麻薬の密売と関係があるのではないかという疑念も伝えられている)。「シグラーニはとても注意深く話を聞くと、私の肩を軽くたたいて、『この件にはこれ以上関わらないように』と助言しました」と彼女は証言した。その後間もなく、シグラーニは「新たな起訴の根拠が完全に欠如している」との理由で、訴訟を取り下げさせようとした。

モンテージ殺害事件の裁判で証言を終え、法廷を去るカーリオ

THE RAKE JAPAN EDITION issue 23
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